■石灰の残した文化遺産001 宮沢賢治と炭酸石灰(第1回)
 石灰業界に携わる者として宮澤賢治は偉大なる大先輩です。師の足跡を技術と歴史の両面から勉強したい旨、太陽と風の家(旧東北砕石工場)館長 伊藤 良治様にご相談しましたところ快諾を頂きご寄稿頂きました。本号より4回の連載を予定しております。

宮澤賢治と炭酸石灰
‥‥この土を この人たちが この石灰で‥‥
伊 藤  良 治

 今回、日本石灰協会の機関紙への寄稿依頼をいただきましたが、石灰産業の外にいる私ごとき者に何ほどのことができようかと躊躇してきました。だが素人は素人なりの書きかたでもよかろうとペンをとることにいたしました。ご容赦ください。
 さて文学面で盛名を馳せる宮澤賢治が、我が東山町の「東北砕石工場」と深く関わってきた事実は、あまり世に知られていません。最近やっと注目されるようになってきてはいますが、もっとアピールしなければならないと念じています。
 そのため私は、先ず我が「東北砕石工場」の創業が、実は小岩井農場への炭酸石灰(今のタンカル)供給がきっかけだったことから書きはじめていくことにします。

1.「小岩井農場七十年史」「小岩井農場百年史」をひもとくと

 実は、小岩井農場からご恵贈いただいた「小岩井農場七十年史」(昭和43年発行)、「小岩井農場百年史」(平成10年発行)のどちらにも、我が東北砕石工場との関わりがとり上げられていて、我が東山町としてはその資料整備にずいぶんと助けられています。それで今回もそこから引用させていただきながら、我が東山町石灰産業発展の起爆剤となった「東北砕石工場」の立ち上がりを記述していくことにいたします。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 小岩井農場はそもそも「耕作の限界外」にある荒れ地で、農場を切り拓くなど到底考えられないようなところの開拓から始められたのです。一望千里の荒蕪地で住む人なく、ただ入会地として馬の秣場に利用されているに過ぎない「打ち捨てられた火山灰土」の地。その岩手山麓、火山灰の降り積もったまま放置されていた官有地を開墾し、農牧の地に変えようとの構想を抱いた井上勝(内閣鉄道局長官)が、小野義真(日本鉄道会社副社長)、岩崎弥之助(三菱社社長)に呼びかけ、三人の姓の頭文字を組み合わせた「小岩井農場」を誕生させたのが明治24年です。それから10年ほどの経営苦心を経て、いよいよ明治35年以降の「畜主耕従」(牧畜を主とする農場経営事業)を基本に据えた長期計画実践段階に入るのですが、そこには「畜産部門の二大支柱」となる乳牛と馬に与える飼料の自給態勢の整備課題、即ち「地力向上」を目ざす「土壌改良」の重点取り組みが必然的に浮上してくるのでした。そのための三つの重点施策、一つが低湿地の暗渠排水工事、第二に酸性土壌の改良事業、第三が自給肥料(堆厩肥)の増投による肥沃化への取り組みが進められました。


 上記第二の課題、土壌改良工事に関わる経過を「七十年史」から引かせていただきます。「次は酸性土壌の改良である。農場の土壌は分析表によると石灰含有量は0.9%、酸度はPH5〜6度であった。これを矯正するために石灰の使用は明治期から行われたが、当初は消石灰が使用された。これを圃場に散布するとか或いは堆肥に混合するとかしていたが、何分にも広大な圃場なのでその作業が十分でなく、また効果の持続性少ないという憾みがあった。偶々米国では石灰石を細粉して施用することを場主が専門誌上で知ってこれを試みることにした。大正10年頃のことであろうか、当時農場付近で細粉石灰石を入手することが出来なかったので、やむを得ず石灰工場の屑石などを買入れて用いたが、勿論満足すべきものではなかったので農場で細粉設備を設けようとして調査を進めた。ちょうどその頃耕耘部鈴木技士の欧米出張のことがあり、場主の意向でその帰朝を待つこととなったが、偶々12年県南の石灰業者に農場希望の通り細粉供給を請負うものが出来て入手が可能となった。(※アンダーラインは筆者)
 施用計画の大体は、全耕地約800町歩に対し反当り半頓として、一ヶ年4000頓を原則とし、これを10ヶ年継続するというものであった。使用の石灰細石は米国の標準にならって60メッシュのものとした。昭和5年からはライムソーワーを使用して圃場に散布するという方法に改めた。農場が石灰を施用する目的は土壌の酸性を矯正するにあったことは勿論であるが、同時に耕作作物の石灰含有量を高め、且つ収量の増加を図ることも大きいねらいであった。ブリーダーとしては動物に対して石灰分の十分な飼料を施与することは肝要なことであり、ことに石灰分を含有する良質の乳汁を得るために乳牛の飼料として、また馬の堅牢な骨格を形成する飼料として石灰分は欠くことの出来ない要素なのである。」(平成10年刊行「小岩井農場百年史」にも同じ内容が記述されている。)


 ここから読みとれるように、小岩井農場が土壌改良に必要な石灰細粉(炭酸石灰)を農地に施与する計画を持ちながらも、なかなか思い通りに入手できずに不便しており、やむを得ず農場自体で細粉設備を設けようとしていた矢先、「偶々大正12年県南の石灰業者に農場希望の通り細粉供給を請負うものが出来て入手が可能となった」というのです。
 そして小岩井農場の石灰施用目的は、次の3点にあるとしています。
1)酸性土壌の矯正には石灰細粉が最有効で
2)石灰施用により、耕作作物(飼料)の石灰含有量を高めることで
  ・石灰分を含有する良質の乳汁が乳牛から得られるし
  ・馬の堅牢な骨格を形成する要素になる
3)その上、農作物収量の増加を図ることが可能になる
 (宮澤賢治も全く同様な解説を東北砕石工場の宣伝広告に書いています)
 我が東山町と小岩井農場の密接につながる偶然の出会い、「県南の石灰業者」(後の「東北砕石工場」)の登場についての記述がこうでした。くわえて新たに書き足されている事項を「百年史」年表にみつけました。大正14年の欄に「土地改良のため、全耕地に石灰石細粒を本格的に撒布」とあるのがそうです。東北砕石工場の操業開始がまさに「大正14年」、小岩井農場ではその年から「本格的に撒布」するようになったと、「70年史」には記述されていなかったことまで明文化させています。小岩井農場として何か安堵の息遣いが洩れてきているような文面に受けとれますが、ひいき目だからなのでしょうか。


 ところで当時の小岩井農場主は岩崎久弥氏でした。明治26年に設立した三菱合資会社の社長に就任、明治32年以降の小岩井農場経営一切をも引き継ぎ、農場主としてみごとな成果をみちびいた方です。当時大農場を目論んだ幾十の日本の企業家のほとんどすべてが、その経営に失敗する中にあって、岩崎久弥氏は「浮いた利益を求めず、堅実に確実に前進」していく事業家でしたが、彼はまた「自然に接し大地に親しみ、大地の果実を愛する天性」の持ち主でもあったとのことです。国際的視野を具えての農牧事業への異色ともいえる傾注、どんな困難な道をも彼の明智と勇断によって切り拓き、ついに小岩井農場の名声を世に高めた育ての親が彼岩崎久弥でした。そしてまた学究者でもあった彼自身が国外の専門誌で、欧米の大農場が酸性土壌改良剤に石灰細粉をつかっていることを知って、その施用を小岩井農場にすすめたと「七十年史」「百年史」のどちらにも記されていますが、そもそも東北砕石工場との縁結びの親は農場主岩崎久弥氏だったと云えましょう。
またこのすぐれた農場主岩崎久弥の下に、小岩井農場生え抜きの勇将戸田務農場長がいました。「戸田は畜産以外の耕耘、樹林関係についても造詣が深く、その誠実な人柄とあいまって岩崎久弥からは全幅の信頼を得ていた」人で、「農場の興隆に致した功績はまことに大きいものがあった」方です。この温厚謹直な農場主岩崎久弥と農場全般に造詣の深い誠実な人柄の農場長戸田務両氏の業績の一つが、我が東北砕石工場の誕生と云って過言ではありません。 一方、貞三郎・東蔵が請負い業者として小岩井農場に名乗り出たのが大正12年、「東北砕石工場」としての創業が翌13年、そして操業開始が14年と経過していくのですが、ちょうどそれは大船渡線が一ノ関駅から摺沢駅まで開通した同じ年(大正14年7月26日)です。というより、この大船渡線開通が、陸中松川駅から小岩井農場までの貨物輸送を可能にすると、その時期を当て込んでの操業開始でもありました。


2.「東北砕石工場創業」まで

 では現地東山町で「東北砕石工場」がどのような経過を辿って小岩井農場に石灰細粉を供給するようになっていったでしょうか。
 先ず工場創業に関わった当事者、鈴木東蔵と鈴木貞三郎の紹介から始めていきます。両人とも東山町(町村合併以前は長坂村と松川村)住民で、鈴木貞三郎が鈴木東蔵(創業後の工場主)の叔父にあたります。貞三郎の姉(かめ)の娘(まつの)が東蔵の妻、いわば姻戚関係にあります。加えてもう一人、貞三郎の実弟川村貞助(旧姓鈴木)が、当時小岩井農場に勤めていたことも紹介しておかねばなりません。そしてこの三人(貞三郎・東蔵・貞助)の身内関係が、小岩井農場と東北砕石工場を結ぶ機縁となり、そしてそれが現在の「石灰の町 東山町」にまで発展する基盤になっていくのですから、私はそこに宿縁とも出会いの不思議さとも云える「つながりの糸」が感じられてなりません。

 だがある人は、単にそういう人間関係という狭い視点からだけでなく、南部北上山地という古生層(シルル紀、デボン紀、石炭紀、ペルム紀)に形成された豊かな地下資源、自然からの贈りものがそこにあってのことだと云われます。まことにそのとおりで、いわば地人論の視点を見落とすべきではないと感じさせられます。「宇宙の法則」の中に何千億もの星の生滅があり、銀河系、太陽系の誕生があり、地球50億年の歴史、生物の発生進化が人類、そして今の我々が存在している事実。その全ては「偶然」発生したものではなく、若干のゆらぎが伴なうにしても「宇宙法則の必然」によるものなのだとは、宮澤賢治の宇宙観でもあります。
先ず始めに、鈴木貞三郎の遺族(青柳重雄氏)の資料をとりあげてみます。
 「貞三郎は大正の末頃、再三小岩井農場で働いている弟貞助を訪ねていました。軍馬だ、競走馬だ、挽馬だの、馬の商いをしていたのです。ところがある日広大な小岩井の農地に白い粉を撒布しているのを見て不思議に思い、弟貞助に『あれは何だ?何のために撒いているのだ?』と尋ねたところ、『石灰と云ってな、猊鼻渓の岩石と同じものを粉にして撒いているんだ。あれは福島県(八戸という説もある)でできたもので、この辺りの酸性土壌を改良するにはどうしても必要で、農作物の増収にもなるんだ』といわれ、貞三郎はたいへん驚いて聞き返します。『もしオラホ(おれたちのところ、東山町)でつくれば、小岩井でその粉を買ってくれるだろうか?』と。『これからの農業では大分使用されるようになっていくだろうし、小岩井でも買うだろうよ』とは貞助から説明されました。
 以来貞三郎は間もなく、当時<石のことなら東蔵さん>の評判を得ていた東蔵にその話を持ちかけました。東蔵は貞三郎の姉、かめが長坂の上野(屋号)に嫁いで出来た二女まつのの亭主だったので、親密に話が出来たわけです。これを聞いて東蔵は‘我が意を得たり’と、東山の鉱脈、鉱区権、採石、砕石について説明してくれました。また自分もいろいろと調査して、貞三郎にその起業を勧めたとのことです。その後貞三郎と東蔵は、再三の打ち合わせで会社の設立、工場の建設と話が進んでいき、大正13年、ついに東北砕石工場を設立しました。貞三郎が社長になり鈴木東蔵が工場長、鈴木貞治(貞三郎弟)は事務長として発足したのです。貞三郎は我が家の一角にあった米貯蔵棟を搬出して砕石工場の事務所・工場に当て(今も東北タンカル工場に骨材として現存)、砕石工場の一歩を踏み出したわけでした。)
若干横道に入りますが、ここで東蔵が‘我が意を得たり’と何故よろこんだのか、その背景を簡単に触れてみましょう。東蔵は小学校卒業後、村役場の書記として15年ほど勤めまていますが、その間の活動実績は多彩です。明晰な頭脳と旺盛な知識欲、先進的な発想と物怖じしない行動力、朴訥ながらも人を引きつけずにおかない話題の豊かさ、彼は自ずと青年活動のリーダーとしての実質を担い諸活動を展開していくのです。また当時の社会情勢に眼を向け、主体的にその課題解決にいどんだ「農村救済の理論及び実際」、「理想郷の創造」と題する著書も出版しています。そして事情があって役場書記を退職した後の足どりもまた特異です。役場書記時代の千葉式自働耕作機特許申請事務の整理後、上京して雑誌記者をしながらの第三作「地方自治文化的改造」出版などもそれに含まれます。ちなみにこれら3冊の著書は、どれも地方自治担当の経験に立った農村社会改造施策研究の表われです。それから隣村田河津村(現在は同じ東山町内)で砥石を採掘して東京に卸す事業を起こしたりもしています。だがこの砥石製造販売事業が挫折します。
 家に戻っていたその東蔵に、この石灰細粉(後に宮澤賢治が「肥料用炭酸石灰」と名称を変えるよう献策)にかかわる情報が叔父貞三郎から届けられました。長坂村・松川村一帯に無尽蔵に横たわる地下資源・石灰岩の採掘事業を起こすことに明るい希望が見えてきた東蔵のよろこびは、さぞ大きかったことでしょう。まさに「我が意を得たり」です。「石のことなら東蔵さん」のこと、東山町近辺の石灰岩層分布なら地元の誰よりも詳しく知っていました。

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 そこで叔父貞三郎から話を聞いた東蔵は、早速小岩井農場に出かけて行き、前述の叔父川村貞助をとおして当時の戸田務農場長と面会しました。農場として喉から手が出るほど欲しがっていた石灰細粉(今のタンカル)のことです。しかもその入手に困難をきたしていたちょうどその時機が大正12年、偶々東蔵が農場長を訪れたという適時的な出会いが実を結んでいくのでした。2年前の大正10年頃、三菱社長であり、小岩井農場主だった岩崎久弥氏の手にした専門誌による情報が、その実現を見るに至った農場側のよろこびも大きかったことでありましょう。
東蔵が初対面の戸田農場長に「大理石産業を始めようか、石灰産業にしようか迷っている」と打ち明けたところ「農場では石灰細粉は欲しいが、大理石は要らない」との返答で、農場自体の石灰細粒の需要を確かめた東蔵は、早速に叔父貞三郎と石灰事業を起こす取り組みにかかります。東蔵にとってこの石灰事業は、まさに光明にかがやく「あらたなるよきみち」(宮澤賢治のことば)の発見でした。酸性度の強い土の改良を課題としていた小岩井農場、我が東山町の鈴木貞三郎・川村貞助兄弟とその甥鈴木東蔵との身内関係、そして東山町の地に累々と横たわる豊富な地下資源石灰岩、それに農場主岩崎久弥と農場長戸田務両氏の実践構想‥‥この組み合わせが、時代を先駆ける近代石灰産業のハシリを東山町にもたらし、「石の町」東山町の生活基盤形成につながっていくのですから、不思議といえば不思議、そういうものだと云ってしまえばそれきりですが、言い尽くせない感動をおぼえている私です。

3.創業当初の砕石工場

 前にも触れておきましたが、ちょうど大船渡線を一関から摺沢まで通す鉄道工事が進み、その開通が大正14年7月に予定されていました。その開通を間近に控えた大正13年、陸中松川駅から小岩井駅まで製品を鉄道輸送出来る好条件にからめ、東蔵・貞三郎両名は陸中松川駅に近い場所に工場をつくることにしました。そして工場用地や石灰石採取地の土地賃貸借契約を進め、現在位置に「東北砕石工場」の看板を掲げ、いよいよ小岩井農場に石灰細粒を届ける仕事にかかったのが大正14年でした。
 開業当初は工場とは名ばかり、機械も事務所もなく玄翁(げんのう)や石杵、石臼などの道具をつかった手作業で石を砕く作業要領だったので、どうしても能率が上がらないばかりか、揃えて粒を細かくすることも困難をきわめました。
 前述した貞三郎の遺族の聞き書き資料に当時の様子がうかがえるので引用してみます。
 「貞三郎の長男貞雄が十六歳の頃、工員として砕石労働に従事し、大きな石臼、石の杵を振るって製粉作業を続けた。ようやく貨車一車の製品が出来、工場の脇を流れていた小川で使い古しの塩カマスを洗い、それに詰めて縄でくくり、貨車に積みこみ、工場全員の喜びの声に送られ、小岩井農場に向けて出荷されたのは、大船渡線開通(大正14年7月24日一関〜摺沢間)後間もなくでした。ところがその喜びも束の間、小岩井農場から製品が粗悪で使用できないという連絡を受け、工員2名を小岩井に派遣し、石臼と石杵持参で半月ほどかかって砕きなおし、辛うじて納品したという笑えぬ実話」が記述されています。創業当初、製品についての知識も技術も未熟な段階での忘れ得ぬ思い出話です。

(続く)